(ベルリンの建築)ベルリンのユダヤ博物館でその歴史を建築でも体験!

ユダヤ博物館はニューヨークやロンドンをはじめとして、アメリカやヨーロッパ各地にあります。その中でも今回取り上げるベルリンのユダヤ博物館は、ドイツの歴史的な背景から展示内容において特別な意味を含んでいます。それに加えて、2001年に新たにオープンした建築家ダニエル・リベスキンドによる建物によって、建築そして空間自体でも多くのことを感じ体験できる博物館となりました。今回は、そのベルリンにあるユダヤ博物館について詳しく見ていきましょう。 まず、新たにオープンした建物を手掛けた建築家ダニエル・リベスキンドについてですが、ポーランド出身の彼の両親はホロコーストの生存者でした。つまり、ユダヤ系建築家によってまさにこの博物館の新館はデザインされています。そもそも新館は1989年に行われたコンペによって計画が進められていきました。そこで選ばれたリベスキンドは、ギザギザに折れ曲がるプランで、しかも窓も何かの破片が飛び散ったような不規則な形と配置しているという非常に挑戦的なデザインをしています。そこには、新館を上から見るとダビデの星が引き裂かれたような建物の形態となっているなど、戦争でユダヤ人が歩んだ歴史を表現・意味するような意図が込められています。 このユダヤ博物館はリベスキンドによる新館だけでなく、隣接する1735年に建てられた旧裁判所の建物も含まれており、博物館の出入り口はこの建物にあります。新館と旧裁判所の建物は地下でつながっており、新館の地下へ入ると、3つの軸と対峙することになります。 その軸はそれぞれ意味を含んでおり、1つが「ホロコーストの塔」へ向かう「死」の軸、もう1つが建物の外へと

(ベルリンの建築)世界遺産「ベルリンのモダニズム集合住宅群」の中でおすすめの必見なブルーノ・タウトによる馬蹄形ジードルンク

「ベルリンのモダニズム集合住宅群」 は2008年にユネスコ世界遺産に登録されました。それは、1920年代を中心にベルリンで建てられた6つの集合住宅からなり、その中にはワルター・グロピウスやハンス・シャロウンといったドイツを代表する建築家によって建てられたものもありますが、6つの集合住宅の中で最も見ていただきたいのがブルーノ・タウトの手掛けたベルリン南部にある馬蹄形ジードルンクです。今回は、この馬蹄形ジードルンクについて詳しく見ていきましょう。 今回の「ベルリンのモダニズム集合住宅群」をはじめとして、20世紀初頭には多くの集合住宅が建てられていきました。その背景には、19世紀末から急激に都市人口が増加したことがありました。これはベルリンだけに限らず、ヨーロッパにおける多くの大都市で見られました。こうした都市部の人口の急激な増加によって、住宅不足そして都市の一部がスラム化するなどの多くの都市問題が顕著になっていきました。第一次世界大戦に敗戦したドイツでは、終戦後になって公的な要請による集合住宅の建設が次々と進められていきました。ベルリンでは住宅供給公社・ゲハーグ(GEHAG)によってジードルンクの計画が進められ、それを指揮したのがブルーノ・タウトでありました。 ブルーノ・タウトはユネスコ世界遺産に登録された6つの集合住宅の内、4つの建物の設計を手掛けていますが、その中でも特徴的なのが今回の馬蹄形ジードルンクです。ちなみに、ジードルンク(Siedlung)とはドイツ語で「集落」を意味し、建築の中では集合住宅を表します。ベルリンの中心部からは南に少し離れたブリッツにあるこのジードルンク

(ベルリンの建築)東西統一を果たした新しいベルリンを象徴するベルリン中央駅

冷戦時代の壁によって東と西に街が分断されていたベルリンでは、東西統一後に不要となったベルリンの壁周辺の広大な跡地にいくつもの巨大建設プロジェクトが計画されました。現在のベルリン中央駅もその1つで、このプロジェクトによって分断されていたベルリンの鉄道網をつなげることはもちろん、様々なかたちで東西統一あるいは新たなベルリンとしての意味合いが込められています。そこで今回は、ベルリン中央駅の建設に至るまでの経緯や駅舎デザインについて見ていきましょう。 ベルリンがまだ1つの都市として機能していた戦前は、他のヨーロッパの大都市と同様に複数のターミナル駅がベルリンにも存在しました。しかしその後、ベルリンの鉄道網の機能が壁の建設とともに失われ、多くのターミナル駅や路線は廃止されていきました。そうした状態が何十年と続く中で、街の鉄道インフラも完全に2つに分断されていきました。東西統一後、ようやく街の鉄道網の整備が始まり、それと同時に欧州最大規模の中央駅のプロジェクトも計画されました。 広大な敷地が求められたこの巨大プロジェクトにおいて選ばれた場所は、戦後しばらくまでターミナル駅としてあったレアター駅でした。レアター駅は丁度ベルリンの壁のすぐそばにあったことから、周辺敷地や建物は有休化し、巨大な中央駅を建設するのに十分な敷地が確保できたのでした。 この時に、ベルリンの壁が生み出した空地を使って、古くから計画があった街の南北を貫く長距離線も地下に建設されました。これによって、ベルリンには街の東西そして南北に長距離線が通り抜けることになりました。これは他のヨーロッパの大都市にはない鉄道網のかたちでした