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(ベルリンの建築)現在でも体感できる東西分断時代の建築(西ベルリン編)

更新日:2019年12月22日


戦後ドイツは戦勝国によって国土を二分され、約半世紀に渡り東西冷戦の最前線としてお互いにそれぞれの政治的イデオロギーを対立させてきました。前の回では、共産主義体制がつくり出してきた東ベルリンの建築や都市景観を紹介してきましたので、今回は、アメリカ・イギリス・フランスといった資本主義体制下にあった西ベルリンで形づくられてきたそうしたものを見ていきましょう。

1957年、西ベルリンのハンザ地区において戦後の街の復興シンボルという意味合いで国際建築展が行われました。そこには、コルビュジエ、グロピウス、アアルト、ニーマイヤーといった世界中の名立たる建築家たちが参加し、近代的な集合住宅が国際コンペという形によって建てられていきました。この建築展は、丁度同じ頃に建設されていた前回紹介の東ベルリンのスターリン通りの計画と対立的な関係もあり、西側と東側がお互いにそれぞれの体制の優位性を張り合うような状況にもありました。このハンザ地区における集合住宅群は、明らかにスターリン通りの建築群とは違い、建物が緑地を挟んで十分な距離感を持って配置されていると同時に、1つ1つが人間スケールに適した大きさであり、また教会や図書館といった住民の生活の質も含めた都市構成となっています。

ベルリンの壁崩壊後に大規模に再開発されたポツダム広場はご存知の方も多いと思いますが、東西分断時代にはそのすぐ西側に位置する地区に文化広場(Kulturforum)が計画され、ここでミース・ファン・デル・ローエによって「新ナショナルギャラリー」、ハンス・シャロウンによって「ベルリン・フィルハーモニー」と「ベルリン国立図書館」が次々と建てられていきました。当時この広場のすぐ先にはベルリンの壁があり、この文化広場を通して西側の自由主義思想などを東側に示す意味合いもあったようです。特にシャロウンの建築は、ナチスや共産主義体制における左右対称性を重視した権力的な建築構成を避け、曲線を取り入れながら中心性がないような空間で構成されています。

戦争によって街が大きく破壊されたベルリンでは、住宅以外にも学術機関の建物を再建していくことも求められました。その計画地として選ばれたのが、エルンスト・ロイター広場(Ernst-Reuter-Platz)でした。1950年代から広場の計画が進んでいき、その中で車社会への適応として円形交差点で整備されていき、また周囲に建設される大学施設や学術的な行政機関などの建物は、視線が抜けるような開放的な広場となるように配置がなされました。これは、建物が広場を取り囲み圧迫感や閉塞感のある東ベルリンのシュトラウスベルガー広場の様子とは明らかに異なり、実際に西ベルリンではこの広場を戦後における「新しいベルリン」の手本とされていました。

多くの商業施設が国営だった東ベルリンと異なり、資本主義体制にあった西ベルリンでは経済の発展に伴い、クアフュルステンダム(Kurfurstendamm)、略してクーダム(Ku’Damm)に繁華街が形成されていきました。ここには現在でも小さなお店からヨーロッパセンターやカーデーヴェーといった大きなショッピングセンターが建ち並び、東西分断時代には西側の経済力の高さを示す場所でもありました。東西統一からすでに30年の月日が経とうとしており、当時の面影は薄れてきていますが、前回から見てきたように東西分断時代の建築や都市景観は今でも体感することができますので、ベルリンに訪れた際は東側と西側の街の雰囲気の違いを是非実際に感じてみてはいかがでしょうか。

ベルリンの建築はこちらの記事でも紹介しています。


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