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(ベルリンの建築)現在でも体感できる東西分断時代の建築(東ベルリン編)

更新日:2019年12月22日


東西ドイツが統一されてから早くも30年が経とうとしています。第二次世界大戦からおよそ半世紀に及ぶ東西分断は、国土や人々、さらには文化をも二分しましたが、東西統一後は時間とともに当時の気配は薄れてきました。しかし、街がそのまま2つに分断されたベルリンでは、当初から色々な形でそれぞれの政治的な主張が行われ、建築・都市においてもそれは同様で、そうした一面は現在でもうかがい知ることができます。今回は、「東ベルリン編」と「西ベルリン編」の2回に分けて、今でも体感することができる東西分断時代の建築・都市について紹介していきたいと思います。

第二次世界大戦以前から「スターリン様式」と言われる1つの建築様式の建物が社会主義体制下にあったソビエト連邦、そして後には東ヨーロッパの国々で建てられていました。その様式というのは、共産主義が理想の社会秩序であることを称えるという考えの下、左右対称を基本としながらスケールの大きさ、繰り返しのデザインなどが特徴として見られます。戦争によって街の大部分が被害を受けたベルリンでも、東側ではこのスターリン様式を基本に復興が計画されていきました。その内、現在でも残っている代表的なものが「カール・マルクス通り(Karl-Marx-Allee)」にある建築群です。当時はそのまま「スターリン通り(Stalinallee)」と呼ばれていました。ここでも、通りの両側に建つ建物の対称性や100m以上もある通りの幅といったスケールの大きさなどによって、社会主義体制の威厳さを国内外に知らしめる狙いがあったようです。

ベルリンの街のシンボルと言えば、高さ368mのテレビ塔を思い浮かべる方も多いでしょう。今でこそベルリンの観光名所の1つとなっていますが、実はテレビ塔は旧東ベルリン側にあり、1960年代後半に東ドイツによって建てられたものでした。これによって、東ドイツは自国の経済力や工業力といった国力の高さを示すと同時に、共産主義国の都市形態の特徴である一極集中をも象徴されています。

そのテレビ塔のすぐ隣に位置するアレクサンダー広場も、東ドイツにおける政治的な意味合いが含まれた場所でした。同様な広場としては、モスクワの「赤の広場」がありますが、こうした広大な広場を設けることで大規模な集会などが開けるように計画されました。新しい建物などが建設され、当時と少し様子は変わりましたが、現在でも社会主義的な雰囲気の漂う建物が広場を取り囲んでいると同時に、当時からある世界時計や噴水は市民の待ち合わせ場所となりながら残されています。新しく建てられた建物もファサードデザインをグリッド状の古い建物のものと合わせることで、当初の広場の印象を損なわないような配慮がされているようです。

世界遺産となっている博物館島には、かつてベルリン王宮がありました。その王宮も第二次大戦中に焼失し、戦後は東側に属することになりましたが、そこでは修復されることなく取り壊されてしまいました。1970年代、その王宮跡地には大きなガラス張りの建物である「共和国宮殿」が建設されました。そこでは人民議会や党大会といった国家行事が行われる一方、レストランやボウリング場などにも利用されていました。この建物は壁崩壊後の2008年に完全に解体されましたが、現在ではかつてここに建てられていたベルリン王宮の再建が進められています。それに先駆けて、その側には「フンボルト・ボックス」という建物が建てられ、ここでは王宮再建計画の詳細や展示などを見ることができます。共和国宮殿を見ることはすでにできませんが、これまで見てきた左右対称のデザインとは全く異なるフンボルト・ボックスを実際に体感することで、対比的に東ベルリン時代の建築あるいは都市景観を味わってみてはいかがでしょうか。

ベルリンの建築はこちらの記事でも紹介しています。


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